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 薬術学に続く授業は、白兵戦術と呼ばれる魔術を使わない、体術だけを養うための授業だった。勿論、この授業は教室では行えない。そのため、学院の敷地内には、戦闘が出来るように設置されたコロッセウムを模した、ドーム状の闘技場が作られていた。


 白兵戦術や魔法学といった授業は、制服で受けることが禁止されており、専用の体操着が用意されている。アスガルド女学院では珍しい、半袖にハーフパンツの体操着は至ってシンプルな作りで、朱音はブルマでないのを心底喜んだが、雅美は何故か悔しがっていた。
 今までの授業に、漠然とした不安しか抱いていなかった朱音であったが、この授業にはそれなりの自信があった。体力だって人一倍あるほうだし、運動に置いては男子にも負けた事がなく、それに家が家だったため、剣術修業も並ではないくらいの鍛錬を、幼い頃から続けてきたのだ。自分で言うのもなんだが、唯一自慢できる特技だ。

 今までの学校では、剣や体術を養う科目が一つもなく、白兵戦術はアスガルド学院で初めて朱音が楽しみにしていた授業だった。家や鍛錬以外で、それも学院で好きな剣を振るえる事と、今まで同い年の子達と剣を交えるという経験がなかったため、湧き上がってくる闘争心とも好奇心とも呼べるものが頭を支配していた。

 だが、それはつかの間の感情だった、白兵戦術の担当教員であるフォアル先生(ウェアワイルド)が決めた対戦相手で、朱音の戦意は欠片も残らなかったのだ。フォアル先生曰く、同じ力量のもの同士で戦った方が、技量は格段に上がりやすくなるらしい。歳も殆ど変わらないのだから、力量も然程変わらないクラスメート同士は、練習相手にはかなり丁度いいから遠慮なく打ち込めとも言っていた。

 確かに、フォアル先生の言っている事は正論だった。しかし、朱音には、切れない練習武器を構え、微かに震えながら涙目でこちらを見ているミリアに攻撃する気など全く持って湧いてこない。

 少し刀を弾いただけでも、周りの視線が冷たく刺さりそうで怖いかった。

「ミッミリア……。もうちょっと肩の力抜いたほうがいいぞ」
「はっはい……!!」

 出来るだけ優しくいう朱音だったが、ミリアの肩からは力が抜ける様子はない。逆に声を掛けたせいで余計に強張ってしまったようだ。そんなミリアの様子に、朱音は困ったように頭を掻きながら視線を移すが、ミリアの武器を持つ手で視線が留まる。

(へぇ、きれいな持ち方だ。基本がしっかり出来てる……)

 ミリアの様子からしたら、想像ができないくらいのいい持ち方だ。流石に、今まで授業をこなしてきただけはあると少し感心する朱音。それとは逆に、ミリアには悪いが勿体無いとも思ってしまう。それは、この消極的な性格が直れば、もしかしたらかなり強いんじゃないかと確信したからだった。

「ミリア、試しに私に打ち込んできなよ。徐々に慣れていこ。大丈夫、私は受けるだけだから安心して」
「えっ、でも……」

 私の提案に、困ったように言葉を濁すミリア。根本的に彼女は優しいから、それが遠慮という形になってしまうのだろう。

「大丈夫、大丈夫。ほら、こうやって最初は軽く振ってくればいいからさ」
「あっ、だっ駄目です、朱音さん!!危なっ……!!」

「ミリアに何やってんだゴルァァアアアア!!!」

          バキ!!!!!

「ゴフォッ!!!」

 朱音はそう言いながら、剣を模した練習用武器を宙を裂くように軽く振った。勿論ミリアには被害がいかないように。そんな朱音から、ミリアは一瞬何かに気付いたように目線を他に移すと慌てて視線を戻し、朱音に向かって叫んだ。しかし、その叫びも空しく、朱音の命は既に危険に晒されていた。
 その時、朱音に向かって突撃してくる影は、もう間近に迫っていたのだ。例えるならば獰猛な肉食獣のチャージ(突撃)、いやそれ以上の勢いで、宙を裂くような見事なまでのアリアの垂直ドロップキックが朱音の顔右側面にぶちあたった。

 そして、その後は授業が終わった後の記憶しか残っていない。確かな事は、攻撃された顔だけではなく、節々に痛みが残っている事と、ミリアに泣きながら謝られた事だけだった。これが五時限目に起こった薬術学に続く恐怖体験パートツー。

 

 六間目の授業は、魔法学。いわゆる、黒魔術と白魔術を習う授業だ。朱音が最も経験がなく、不得意な授業であり、この学院でかなり重要視されている授業。白兵戦術同様に、コロッセウムで行われ、先生が入れ替わる形式になっている。勿論制服の着用が禁止なのは、白兵戦術と同じだ。
 しかし、先程の授業とは、打って変わった雰囲気に、朱音は早くも胃が痛くなっていた。その理由は、入れ替わりに来た先生が、とてもじゃないがヤバイ雰囲気を醸し出していたからだった。先程のフォアル先生は、活発そうでハキハキとした感じのスポーツマンを形にしたような女性だった。朱音の目から見ても、クラスの女子にも人気が有りそうだったし、何となくだが好感が持てた。だが、入れ替わりに来た先生は、フォアル先生とは全く逆のタイプだったのだ。
 長すぎるウエーブの黒髪に、青白い肌。真っ黒の服に、赤い爪。名前は、烏丸聖子というらしい。ペットがコウモリとかイモリであっても、この先生だったら納得してしまうだろう。黒一色で統一された彼女の周りには、黒い靄が見えるのは幻視と信じたい。
 体育座りをして先生の話に耳を傾けている生徒たちが、先生に蘇させられたゾンビのようにまで見えてきてしまう。

(マンガで見た、黒魔術の儀式を超えた怖さだよ)

 クラスメートの中で同じように体育座りをしていた朱音は、目の前の言い知れぬ光景に恐怖を隠せずにいた。

「……、という事です。皆さん分かりましたか?分かりましたよね?……そう言えば、このクラスに新しい転入生が来たそうね。それも、有名な鬼宮の血筋の方が」

 先生はそう言いながら、ニタリと笑った。もしかしたら、顔を綻ばせたつもりだったかも知れないが、そんな可愛い表現じゃこの恐怖を伝える事は出来ないと思う。先生が酷く掠れた声でそう言うと、生徒の視線は自然と朱音に移る。

(あぁ、見るな!! 私に話題を持っていくなぁ!!)

 朱音は冷や汗をダラダラと流しながら、何とかやり過ごそうと押し黙っていたが、生徒の視線に気付いた先生が朱音の存在に気付かないはずがなかった。朱音と視線が合うと先程の笑みより、人間離れした笑いが先生から漏れた。そんな先生に向かって、朱音は何とか愛想笑いを浮かべるが、恐怖の色は隠しきれないでいた。

「ふっふふ……、貴方が鬼宮さんですか」

 観賞深げに舐めるような視線を送る烏丸先生。朱音はというと、愛想笑いのまま顔が固まってしまっている。

「……先生、貴方のこと気に入ったわ。……今度お付き合いできないかしら、じっくりと血液採取を楽しみたいわ。鬼宮の血はとってもきれいと聞いているから。ふふっふ……」
「ヒィィイイイ!!」

 懐から細い注射器を出しながら、心底楽しそうに口元を歪めている先生に対して、恐怖が絶頂に達する朱音。他人の目を気にする余裕すらなく、目尻に涙を溜めながら隣に座る雅美に助けを求めるようにしがみ付く。

「ちょっと離しなさいよ! 私まで命の危険に晒さないで!」

 朱音を振り払おうと雅美も必死にもがくが、一向に離れる気配がない。いつもの朱音の力なら、振りほどくのも雅美にとっては簡単なのだが、生命の危機に晒されると、いつも以上の力が出るというのは本当らしい。

「少し残念ですが、これ以上授業の時間を割くわけにはいきませんから、この話はまた後ほど……。さぁ、皆さん、授業に取り掛かってください」

 取り出した注射器をしまわずに、指示を出す烏丸先生。だが、依然として朱音から視線を移そうとしないのに気付いた朱音は、逃げるようにその場から急いで移動する。烏丸先生から一番離れた、コロッセウムの端にまで移動すると、落ち着いた足取りでこちらに向かってくるリセリアの姿が見えた。
 薬術学の時と同じように、リセリアがペアなのを今更ながら思い出す朱音。

「ごっごめん、無我夢中で逃げてきたから、置いてくるような事しちゃって」

 慌ててリセリアに駆け寄りながら、急いで謝る朱音。自分が魔術が出来ないために、彼女に迷惑を掛けている事を、鈍い朱音でもよく分かっている。今の朱音は、リセリアに足りない部分を補ってもらっているのと同じなのだから。その自分が勝手な行動ばかりしていては、彼女に対して失礼だと思ったのだろう。
 そんな朱音の行動に、一瞬驚いたような表情をするリセリアだったが、またいつもの鉄仮面に戻ってしまう。

「別に、そんな事で謝る必要もないでしょう」
「えっ、いや……その……」
「それよりも、貴方には色々と覚えてもらわなきゃならない事ばかりだから、さっさと始めましょう」

 こうも冷たく返されると、返答に困ってしまう。必死に言葉を考える朱音を横目で見ながら、リセリアは言葉を続ける。

「貴方の場合は、口で説明するより実践で覚えさせたほうが効率がいいわね。説明しても分からないだろうし」

 最後の言い回しが引っかかるものの、本当の事なのだから文句も出てこない。確かに、魔術のことで説明を受けても、半分も、いやもしかしたら四分の一も理解できないかもしれない。

「じゃあ、基本的なことだけ説明するからちゃんと聞いていて。まずはシンボルね。一般的には、魔方陣とも呼ばれているわ。……ほら、アレがシンボルよ」

 淡々と説明を開始するリセリア。付け焼刃だろうが、基本中の基本くらいは知っていてもらわなければ困るのだろう、彼女はあるクラスメートの一人に朱音の視線を促すように指差した。
 そこには、青白い光を放つ小さな魔方陣が、女生徒の目の前に描き出されている。空中に描き出された魔方陣は、彼女の意思を汲み取るかのように光を増していき、彼女の意思道理に青白い魔方陣は姿をかえ水の弾丸となって勢いよく弾きだされた。その水の弾丸は、少し離れた場所に佇む、彼女のペアらしき女生徒に向かって真っ直ぐに飛んでいく。その落ち着き払った様子からして、自分に向かって攻撃してくるのは始めから分かっていたようだった。
 すると、今度は金色の魔方陣が彼女の立っている地面から浮かび上がり、魔方陣の色と同様に金色の光を放ち始める。そして、いっそう光が強くなった瞬間、魔方陣は彼女を守るように岩へと変貌し、彼女と弾丸の間に割って入るように出現したかと思うと、岩と弾丸は相反する力でぶつかり合い、お互いを相殺し跡形も無く散っていった。

 一瞬の出来事に、朱音は目の前で起こった様々な現象を把握しきれずにいた。ポカンと大口を明けながら、一点を見つめる姿はアホそのものだ。しかし、魔術に対して一切の経験がなかった朱音にとっては、それが普通の反応だろう。漫画の世界にでも迷い込んだような気持ちになってくる。

「アレが、これから貴方に出来るようになって貰うものよ」

 サラリととんでもない事をいうリセリアの言葉も、今の朱音には多分聞こえていない。自分が魔法など習得できるのかと思っていた漠然とした不安が、よりいっそう強くなる反面、身体の内から止め処なく溢れる好奇心を抑えられずにいる。先程までのポカンとし大口からは、想像も出来なような楽しそうな笑みが見え隠れしていた。

 その感情はリセリアには直に感じ取れた。

(こういったところは、そっくりね……。流石は、貴方の血を引いてるだけあるわ。力量は似ても似つかないけど)

「時間が惜しいわ。早く始めましょう」
「あっ、悪い……じゃなかった、ごめんなさい」
「……まずは、シンボルの形成からね。これが出来なくては、次の段階には絶対に進めないから。努力なさい」

 そんな心情すらも表には出さずに、リセリアは先へと促す。そんなリセリアに対して、ついいつもの口調が出てしまい、慌てて訂正する朱音。

「それじゃあ、今日は初級魔法をやっていきましょうか。一番簡単なシンボルは、火の属性を持つ魔法ね。シンボル自体が単純な構成だから、ある程度はコツがつかめる筈よ。私が今から、シンボルだけを形成してみるから、鬼宮さんはシンボルの形成と中心にある一文字のルーン文字を覚えて」

リセリアはそう言うと、意識を集中させ殆ど時間を使わずにシンボルだけを形成した。その速さは、他の生徒たちとは比べ物にならないくらいのスピードがある。そしてもう一つは、シンボルが安定したままの状態を維持し続けている。他の生徒達を見ていたが、そう時間が経たないうちに、シンボルが消えてしまったり、力を注ぎすぎてしまったのか、シンボルが破裂や歪んでしまった生徒を多数見かけた。この事だけで考えても、リセリアの力量がクラスメートと比較にならない事がよく分かった。

 出来るだけ早めに、シンボルの形成と火のルーン文字を覚えたはいいが、どういう風にシンボルを作り出せばいいか分からない朱音。自然と眉間に皺が寄る。

「それは、今から説明するわ」

 そんな朱音の顔にチラリと視線を移したリセリアは、直に視線を戻すと少し呆れ気味にそう呟いた。朱音の考えている事は、全てにおいて分かりやすいらしい。クラスメートと言っても、今日はじめて話す事になったリセリアにも分かってしまうのだから、分かりやすいという事は否定できない。

「今覚えたシンボルを頭に連想して、シンボル自体魔力を宿しているから、それだけでも意味があるわ。はっきりと連想できたら、今度はシンボルに自分のエーテルを流し込んで実体化をさせるの。エーテルの操り方は、貴方の籠手の武器と同じようにすればいいわ。籠手とシンボルを同等と考えて」

 的確なリセリアの指示通り、シンボルの連想を始める朱音。目を閉じて、ゆっくりと頭に描いていき、篭手同様に、エーテルを慎重に集中させながら流し込んでいく。エーテルの動きを感じ取っていたリセリアは、ここまで順調にことが運んだ事に、内心少なからず驚くが、あえて何も言わずに静観していた。すると、そう時間の掛からないうちに、連想したシンボルが赤い光を放ちながら具現化を始めた。まだ少し歪で、瞬時に行わなければならないシンボル形成に時間が掛かりすぎるが、最初にしては合格だろう。そんな事をリセリアが思った矢先の事だった。

 リセリアは朱音がシンボル形成している間、目を離さず静観していたが、何らかの視線を感じて目を逸らしたのだった。
その時、朱音はシンボルの形成に限界を感じている頃だった。そういう時こそ、集中力を乱さずにいなければならないのにも関わらず、人間というのは不思議なもので、集中しようと考えているとつい別のことを考えてしまうものである。そして、朱音がその内の一人であったのは、言うまでもなかった。

(くっそ~、やっぱ辛いもんがあるな。

……それにしても、腹減った)

 バチン!!

「あ……」

 朱音が一瞬集中を切らした瞬間の出来事だった。乾いた音がなると同時に、歪だったシンボルは風船を割った時のように弾けとび、それだけなら未だしも、あろうことか魔法を発動させて破裂してしまったのだった。その異変に、一歩気付くのが遅れたリセリアは、しまったと心の中で悪態をつくが、時既に遅し。行き場を無くした火のエーテルは小さな爆発を起こす寸前だった。流石のリセリアも、この近しい距離では避ける事が出来ないと悟った瞬間、誰かに抱えられた事に気づいた。

「やっベー死ぬ!!」

 そんな間の抜けた声が上がった瞬間。小さな爆発と共に、二人は軽く吹き飛ばされた。

 

 

「あー、いってぇな~。……あっ!!」

 爆発時の威力は対した事はなかったのだが、人一人庇うだけでもダメージは変わってくるとはこういう事なのかと、今更ながら実感する朱音。大体四~五メートル位は吹き飛ばされたようだ。爆発が起こった地点では、黒い煙が立ち上っていた。その煙を見ながら、一緒に吹き飛ばされた女生徒の顔が瞬時に思い浮かぶ。身体の痛みが少し気になるが、今は痛みよりもリセリアのほうが心配だ。慌てて起き上がると、朱音のすぐ傍らで自分の胸を隠すように両手でクロスの形を作り、上半身だけ起こしているリセリアの姿があった。その顔は、鉄火面でなく困惑にも怒っているようにも見えるし、何よりも女の子らしさがある。

「よかった~。無事か?一応怪我はないみたいだな……。リセリアさんが小さくてよかったよ。運びやすかっ……」

 心底安心したようにそういう朱音は、リセリアから発せられるどす黒い殺気で凍りつく。

「……貴様、人の胸を触っておいて、貧乳呼ばわりとは、死ぬ覚悟は出来ているのだろうな」
「えっえっえ?」

「望みどおり殺してくれるわ!! ダンシングソード!!」

 ユラリと立ち上がったリセリアは、ギラギラと尚も上がり続ける殺気を放ちながら、朱音のほうを見据える。状況の判断が付けられず、それ以上の言葉が出てこない朱音に向かってリセリアはシンボルを出現させ、十八番であるダンシングソードを発動させたのであった。ダンシングソードとは、無数の剣が具現化され、思いのままに操り相手を攻撃するという、恐ろしい上級魔法である。その後朱音は、五時限目同様、授業の終わりを告げるチャイムがなるまでリセリアに追い回されたのは、言うまでなかった。

「あのリセリアさんを怒らせる何て、益々気に入ったわ。……ふふっふ……ふ……」

 そして、魔法学教師である烏丸に、更に朱音が気に入られたのは、ここだけの秘密だ。あと、リセリアが感じた視線の正体は、女生徒の体操着姿を覗きに来ていた学院長だった。これは、近いうちにバレるだろう。

 


「う゛ぅ~~ぐぅ~~~」
「うふふ……ほら、ちゃんと我慢しなきゃ駄目よ~」

 保健室のソファに朱音を座らせ、保険医であるシェリスは痛みで悶える朱音の顔に丁寧に薬を塗りつけながら、恍惚とした顔で見つめていた。消毒液の臭いが鼻を衝き、薬を塗りつけられる度に擦り傷が滲みる。シェリスが愛用しているチューブ型の塗り薬はよく効くが、つけた瞬間の滲み具合は他の薬とは比較にならないものがあった。

「い゛っ……先生、もっと滲みない薬はないんですか?」

 流石に撃たれ強い朱音であっても、こう言った痛みは苦手らしい。右頬にシップを貼った顔からは、目尻に涙が溜まっていて、一生懸命歯を食い縛りながら滲みるのに耐えていた。その顔を見ていたシェリスは、背徳感にも加虐感にも似た感情が、ゾクゾクと背筋を駆け上がるのを、抑えられずにはいられない。

「我慢しなさい。これが一番治りやすいのよ」
「い゛~~~~」

(うふふ。こんなに虐め甲斐がある子なんて、そうはいないわ。あぁ、なんだか我慢が出来なくなってきてしまうわ)

 わざと刺激が強い塗り薬を塗りつけながら、シェリスの興奮は絶頂を迎えようとしていた。このアスガルド女学院に来てからというもの、シェリスは色々な生徒たちの手当てや体調管理を任されてきたが、シェリス自信趣味で保険医をやっている事もあり、この多忙な学院の仕事にもそれなりに成果を出してきたのだが、最近マンネリ化していてつまらなく感じていたのだった。
 
しかし、何日か前に、アスガルドには珍しい編入生の噂がシェリスの耳に届いた。この女学院に来るという事は、他の女生徒達と然程変わらないだろうと思っていたシェリスは、実際の編入生を見て大目玉を食らう事になる。それもその筈、編入初日(昨日)に高等部副会長こと、アリア=メロフィアーゼに、これでもかという位タコ殴りにされ、保健室に担ぎ込まれてきたのだから。このアスガルド女学院では前代未聞の出来事だっただろう。

 アスガルド女学院には珍しいショートカットの髪型に、中性的なルックスと精悍な顔つきにも、シェリスは大いに興味が引かれた。確かに、お嬢様であるここの生徒たちの初々しさも好きだが、時には新しいもの(朱音)を試してみるのいいだろうと、ほんの気まぐれだったのだが……

(まさか、こんなに私好みの反応を示してくれるなんて、思いもよらなかったわ。やっぱり試してみないと分からないものね……うふふ)

 一通りの傷の手当終え、シェリスは塗り薬を棚にしまう。

「はぁ~、先生ありがとうございました」

 薬品棚で何かを探っているシェリスの後姿に向かって、朱音は深々と頭を下げながら礼を言う。治療経過中の痛みは激しいものの、その後の傷の治りも早く痛みも軽いため、助かっている事には変わりない。

「駄目よ……まだやることがあるわ」
「え……、いや、もう大分よくなりましたから、大丈夫です」

 意味深げに艶めいた声で言うシェリスの言葉に、一抹の不安を覚えながら、朱音はそう返答する。

「うふっ、うふふ……朱音ちゃん……」

「本番は……これからよ!!」

 興奮気味に笑うシェリスの後姿に、不安が込み上げてくるのを抑えきれない朱音。そして、次の瞬間、ゴトッという棚を閉める音が聞こえると、シェリスはそう叫びながら息を荒げてこちらに振り返る。と、その手には黒鞭や猿ぐつわ何かが握られている。明らかに、治療で使われるものではないという事を、いくら馬鹿な朱音でもそれくらいは理解できる。

「ギャー!!!」

 悲痛な朱音の叫びは、空しく学院に木霊する。

 

 

 朱音がシェリスの魔の手から逃げる頃、学院には殆ど、いや全くといっていい程生徒たちの姿は見当たらなかった。授業も終わって随分と経っているのだから、それはそれで当たり前なのかもしれないが、誰もいない学院の廊下は、いつもとは少し違った雰囲気を放ち、どこか異世界にでも迷い込んだような錯覚を起こす。規則正しく並ぶ窓は、夕日の色で廊下照らし赤く染めていた。

「あー、雅美怒ってるよな。急いで図書室にいかねーと、殴られるだけじゃすまないな」

 誰もいない廊下を急いで走りながら、別棟にある図書室に向かう。今の時点で雅美を随分と待たせているので、これ以上雅美の怒りが蓄積するのを防ぐには、出来るだけ早く図書室に着くしかない。本来なら、廊下を走るのは、ここアスガルド女学院でははしたない事とみなされ、規則違反で厳重注意をされるのだが、今は規則違反よりも自分の身の安全が最優先だ。誰だって自分の身が可愛いもんさ……

 図書室に行くには、三階にある渡り廊下を渡っていくしかない。朱音の現在位置は一階なので、辛い階段を一気に駆け上がり、息を切らしながらも直に三階に到着した。荒い呼吸のまま休みなしで三階廊下を走りぬけ、渡り廊下に出る。

(後もうちょっと……)

 そう思った瞬間、渡り廊下の壁にもたれ掛かかっている人物に気づく。その人物は、朱音がここにくる事を予想していたのか、落ち着いた様子で、朱音の前に立ちはだかるように移動した。そんな、目の前の人物を無視するわけにもいかず、朱音はゆっくりと足を止める。乱れた呼吸を整える朱音の顔は、額に浮かぶ汗と共に夕日色に染まっていた。

「リセリアさん?」

 疲れが残る声色で、目の前に立ちはだかるようにたつ彼女に問いかける。
そんな彼女は、やはり顔色一つ変えずに、意思の篭った緑色の強い瞳でこちらを見ていた。朱音同様、夕日色に染められる肌と、長い銀髪が鮮やかな紅色に変わっていたが、そこにいたのは、確かにクラスメートのリセリア=ワルキュレイゼだった。

(まっまさか、今日の授業の事まだ根に持っていて、私を本気で潰しに来たとかないよな……)

 無言の静寂が包む空間と、リセリアの鋭い眼差しがそうさせるのか、朱音の思考は追い討ちを掛けられたように混乱し始める。脳裏には、六時限目に自分が体験した恐怖がフラッシュバックしたように蘇る。

「あぁ、いや……アレは、その誤解……」
「ロザリィ=フレスヴェルグ……」

 慌てながらそう弁解を図る朱音に対して、リセリアが呟いた言葉は予想だにしないものだった。そのリセリアの言葉に、朱音は訳が分からず間の抜けたような顔をするが、リセリアは構わず言葉を続ける。

「彼女に近づくのがやめなさい……。あと、アリア=メロフィアーゼにもね」
「え?……その……、二人は友達だし。知り合ったばっかだけど……」

 鉄仮面のまま、冷徹にそういうリセリア。それが冗談ではなく本気だという事は、雰囲気だけでも十分に伝わってくる。しかし、アリアには世話になったかどうかすら疑わしいが、ロザリィには授業や学院のことも含めて色々と教えてもらったし、仲良くはなれたと思っていた。朱音自信、友達という言葉がすんなりとは言えないが出てきたという事は、朱音自信は認めているという事だ。

「そう思っているのは、貴方だけよ。利用される前に、離れる事ね」

 そんな朱音の心情を打ち壊すかのように、リセリアは軽くそう言い捨てると、さっさと朱音の隣を通り過ぎる。そんな彼女を呼び止める事も忘れて、朱音は言われた事の意味を理解できずに、その場から動けないでいた。結局、リセリアは最初から最後まで、顔色を変えることもなく、朱音の前から姿を消した。
 赤く染まった廊下と、静寂を残して……

 

 

第七章へ

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1986/10/31
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