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第一章 アスガルド

 とある一室、黒塗りの大きなテーブルに向き合うように、一人の老人と少女が腰掛けていた。

「あなたも随分老けたわね」

 少女は、無愛想にそう言うと、テーブルに置かれた紅茶のカップに手を伸ばした。その瞬間に、肩口から零れた銀髪が、さらりと胸元に落ちた。

「ふむ……お前はちっとも変わっとらんなぁ。特に、その制服のミニスカートから覗く瑞々しいふともっぐふぉ!!」
「外見は変わっても、中身は全く変わってないわね。このエロジジイ……それで、用事ってなんなの?」

 少女は、太ももを覗き込もうとしてきた老人に向かって、何処からともなく取り出した鞭を放ち、何事も無かったかのように話を切り出した。
 顔面に鞭を受けた老人の胸元にはプラカードが付いており、そこには『聖アスガルド女学院 学院長』の文字が。

「いつつ……学院長に向かって鞭を食らわすとは、なんて生徒じゃ」
「その学院長がわざわざ呼び出したんだから、それなりの用事があるんでしょ?」
「それがのう……今年の編入生の中にな、連の字の曾孫が入ってくるんじゃよ」

 その瞬間、冷静だった彼女の顔色が微かに変わった。
 老人は少女の顔色を伺うように、顎もとの髭を撫でさすりながら話を続けた。

「連次郎の……?」
「あぁ、連の字によく似た、面白い奴でな。色々と面倒を見てやりたいんじゃが……」
「……」
「よかったら、お前が色々と世話してやってくれんか?」
「……嫌よ。私はもう、連次郎とは何の関係もないのよ、それに何で私が……」

 少女は飲み干したカップを乱雑にテーブルに置くと、それきり拗ねた様に黙ってしまった。

「ふぅむ……まぁ、無理にとは言わんが、様子を見るだけでもしてやってほしい」
「はぁ……様子を見るだけよ、これ以上仕事が増えるのはゴメンだわ」
「あぁ、すまないな……」

 少女は無言のまま立ち上がり、部屋を後にした。

 


 プロペラの音が響く中、飛行船は順調に目的地へと進み。飛行船の窓からは、延々と続く雲海が広がっていた。

「見て見て!! あたし達、雲の上にいるよ!! すっご~い!!」

 雅美は、窓の外の景色に感動し、嬉しそうに騒いでいた。

「怖くない……怖くない……怖くない……」

 朱音は、恐怖を振り払うように、延々と何かを自分に言い聞かせながら、前だけを一心に見つめて、自分に取り付けられたシートベルトを握り締めていた。それに対して雅美は、窓の外の光景にしきりに感動し続ける。乗客は、そんな雅美と朱音の姿を横目で睨んでおり、かなり迷惑そうにしていた。

「あっ君見て見て、雲が綿菓子みたいだよ!! ……ねぇ、ちょっと聞いてるの!?」
「あ゛ー!! もう、うるせぇんだよ!!」

 朱音は、自分の袖を引っ張りながら興奮していた雅美の手を、声を荒げて振り払う。しかし、声が裏返ってしまっていて、全く迫力がない。

「ケチ!! 一緒に見てくれたっていいじゃない!!」
「見れないから困ってんだろ!! それくらい分かれよ!!」

 朱音の態度に雅美は、頬を膨らませながら睨む。そんな雅美の顔を見ようともせず朱音は、席に座りなおして下を向くと、また何かを言い聞かせ始めた。

「む~……もう、いいよーだっ!! ふん!!」

 雅美は拗ねたようにそう言うと、朱音から視線を窓へと戻した。

「こんなに綺麗な景色を見ないなんて、後から後悔しても知らないんだから……って、あ――――――!!!」

 雅美が、景色に対してまた感動に引き込まれそうになった瞬間、何かを見つけたように大きく叫んだ。そんな、雅美の声は船内に響き渡り、一層周囲の視線は冷たくなる。

「あっ君、あっ君、ちょっと見て!! ほら!! 本当に空に浮かんでるよ!! すっご~い、お城みたい!!」

 雅美は興奮気味に、窓の景色を指差して、また朱音の方を振り返る。

「だ―――――――!!! うるせぇって言ってんだろうーがぁ!!」
「いいから、見てみなさいって言ってんでしょ!! この馬鹿!!!」

 雅美はそう言うと、朱音の胸倉を掴み、窓際に引き寄せる。その時、朱音の視界には、窓の景色がいっぱいに広がる。

「うぎゃあ~~~~~~~!!! 落ちる!!! 死ぬ――――――!!!」
 
 朱音は取り乱し、瞳に涙を溜めて叫ぶものの、耐えようのない恐怖のせいで、そう時間のかからないうちに泡を吹きながら昏倒したのは言うまでもない。

「何訳わかんないこと言ってんのよ……それよりほら、あれ見てよ!! 本当に浮かんでるんだよ!! 凄いでしょ!! あそこで、六年間も過ごすなんてワクワクするね!!」
 
 雅美は、ある一点を見つめながら、目を輝かせて泡を吹き気絶している朱音にそう言った。雅美が見ていた先には、雲海の中に浮かぶ浮遊大陸が佇み、その光景は、けして地上では見れないほどの壮大さを放っていた。

 これから、この浮遊大陸で、朱音は色々な試練を乗り越えなければいけないことを、この時はまだ知るよしもなかった。

 


「楽しかったー! 六年後の帰りも楽しみだなー」

 雅美は、空港内で嬉しそうにそう言うと、船内で座ったままの姿勢が長かったせいか、小さく華奢な体で背伸びをした。

「ねっ、あっ君。……って、大丈夫!?」

 雅美は、くるりと振り返りながら、朱音に同意を求めたものの、その朱音が、生気が削げ落ちた人形のような顔をしてしゃがみこんでいた。いつもならばここぞとばかりに弄りまくる雅美なのだが、何時もよりも重症という事が明らかだったので、今回は流石の雅美でも心配をした。

「……」

 今にも、魂が抜け出てしまいそうな大口を開けながら、朱音は固まったまま動かない。

「あぁ~、このままじゃ出てはいけないものまで出ちゃいそう。ほ~ら、あっ君、起きて起きて、って起きてるか……。ほ~ら、そんな大きなお口を開けてると、色んなもの詰め込んじゃうよ~」

 雅美が、朱音と同じようにしゃがみこみ、朱音の顔を覗き込むように顔を右に傾ける。その時、肩より少し長めの黒みがかったダークブラウンの髪がさらりと崩れた。

「……」

 そんな、雅美の声が届いていないのか、朱音からは何の反応もみられない。余程、飛行船での恐怖が大きかったのだろう。自分よりも数倍も大きいモンスターと戦ってきた経験もある朱音が、高所恐怖症と言うのは中々面白いと雅美は密かに思う。

「もう、しょうがないな~」

 雅美は呆れながらそう言うと、飛行船から降りた時に渡された自分の荷物をあさる。手探りで荷物の中の何かを探し、見つかったのか勢いよく引き抜く。その手に握られていたのは、飲みかけのペットボトルが一本。ラベルには『渋~い お茶』と書かれている。雅美は、キャップの方を右手で持ちながら、朱音の口に向かって迷うことなく、それを放り込んだ、と言うか捻じ込んだ。

「んがぁ!! ふごぉ!! ふごぉぉおおお!!!」
「何?何言ってるか全然わかんないよ、あっ君」


       ズボ!!!


「何すんだ!!ゴルァァアアアア!!!」

 朱音は我に返ったのか、自分の口からペットボトル引き抜くと、目の前に座る天使のように微笑む悪魔に怒鳴り散らす。

「何怒ってんのさー。出たら困っちゃうかなーと思ったから、蓋してあげただけじゃん」

 雅美は、悪びれもなくそう言うと、朱音の真っ赤な顔を見ながら楽しそうに笑う。

「せめて手にしろ、手に―――――!!!」
「嫌よ。それじゃあ、つまらないじゃん」
「面白ければいいのか!! お前は!!」
「つまらないよりは、面白い方がいいでしょ。何事も……」

 そんな言い争いをする二人に、何者かの不穏な影が近付く。しかし、二人がその影に気づくはずもなく、言い争いはヒートアップする。

「お前は、優しさの欠片もないのか――――――!!!」
「十分優しいじゃない! 見る眼ないわね、このヘタレ!!」
「なっ……!! ヘタレで悪かっ―――――

 むに

―――っ!?」
「ふむ……なりは今一じゃが、いい尻しとるのぉ、お若いの」

 突然、背筋を駆け抜ける凄まじい悪寒に思わず仰け反る朱音。更に続けて、むにむにという擬音と共に、再び悪寒に襲われる。朱音は、顔を引き攣らせながら首だけ動かし、後ろを振り向くと、見知らぬ老人が自分のケツを撫でているではないか。
 目の前では、こちらの様子に気づいていない雅美が、まだ何かを言っているようだが。どんな事を差し置いても、この悪寒の根源を真っ先に排除しなければならないと、彼女はそう確信した。

「な……っにしやがんだこのクソジジイ!!」
「むごほぉ!!」

 振り向きざまに放った右ストレートが、背後にいた痴漢ジジイの顔面にクリーンヒットする。ジジイは錐揉みしながら吹き飛んでいき、空港のロビーの床を豪快に滑っていった。

 


「学院長―――――!?」

 朱音の叫びにも似た声が、空港内に木霊する。

「そうよ、だってパンフレットにも……ほら、ちゃ~んと載ってるし」

 雅美はそう言うと、手に持っている本のページをめくり、朱音に見せる。そこには、今目の前に佇む、朱音の鉄拳によって鼻血が止まらない変質者にそっくりな人物の写真が載せられてあり、その人物の説明文には、アスガルド女学院 学院長と書かれていた。朱音は険しい顔つきをしながら、再度確認するように本の表紙を見た。そこには、アスガルド女学院 パンフレットとしっかりと書かれている。

「……マジ?」

 朱音は、未だに信じられないと言うような顔をしながら、雅美に聞き返す。

「マジ」

 雅美は、いつものようにコロコロと笑いながら呟く。

「うむ、いかにも。わしがアスガルド学院長、宇治 源太郎である」

  目の前に佇む変質者は、鼻血を垂らしながら貫禄のある声でそう言ったものの、鼻血を垂らしながらでは全く説得力がない。

「あーちょっと待ってくれ……これは現実なのか……」

 朱音は、この衝撃的な現実を理解できないでいるようだ。と、言うよりも、受け入れたくないと言うのが本音だろう。眉間に手を添えながら、何かを考え込んでいる。

「まーこういう時もあるよ。人生の中の、滅多に出来ない貴重な体験の一つじゃない」

  混乱気味の朱音とは違い、雅美は冷静に対応し既に現実を受け入れていた。

「ふぉっほっほっほっ、お前さんよりそっちのお嬢ちゃんの方が、随分賢いようじゃな」

 学院長は、朱音のほう見て鼻血を拭き、長く白い顎鬚を触りながらそう言った。

「賢くなくて悪かったな。……で、その学院長さんがこんなとこで何やってんですか?」

 嫌味なジジイを睨みながら、朱音はそう訊ねた。こんな時、しっかり敬語に直す所は、彼女の目上の者に対しての敬意の表れなのだろう。先程の、痴漢行為を許したわけではないようだが。

「ふむ、編入生のお前さんがたを迎えに来たんじゃよ。始めてきた者たちは迷ってしまうからの」
「……そうなんですか。わざわざありがとうございます」

 朱音は、意外な学院長の答えに素直に感謝の言葉を漏らす。確かに、こんな巨大な浮遊大陸で、アスガルドがいくら大きくても見つけるのは困難だろうと朱音は思った。極度の方向音痴の自分なら、辿り着く自信は殆ど皆無に等しい。

「へぇ、私たち編入生のためだけに来てくれたんですか、学院長自ら?」

 そんな朱音とは違い、雅美はさっきとは人が変わったように棘のある言い方と言うか、疑り深いような口調をしながら、真直ぐ射抜くように学院長を見る。

「……雅美?」

 朱音は、いつもと違う雅美の態度に異変を感じつつ声をかける。

「……なに、ただの暇つぶしじゃよ。可愛い子が来るとも聞いておったしの」

 学院長は、雅美の棘のある言葉を気にも留めずにそう言った。

「……そうですか。聞いていた通りでしたか?」

 雅美は、そんな学院長の言葉を聞き、いつもと同じ口調に戻して、ニッコリ微笑みながらそう聞き返したが、気持ちの中の学院長への疑いは晴れてはいないようだ。

「ふぉっほっほっほっ、もちろんじゃとも。聞いておったとおりじゃったよ。まぁ、例外はおったがの……」

 学院長は、いかにも楽しそうに笑ってそう言うと、朱音の方を横目で見る。

「例外で悪かったな……」
「まさに美女と野獣ね、私たち」

 声を低くし怒りのこもったような口調でそう言う朱音とは違い、雅美は満足そうに呟いた。

「……美女と言うより悪女だけどな」
 
 朱音は、そんな雅美の言葉に小声でツッコミを入れる。

「なんか言った?」

 雅美は、朱音のツッコミを聞いていたらしくそう言った。顔は笑顔のまま、しかし声は笑っていない。

「……いえ、何でもありません」

 朱音は雅美に対して、言い知れぬ恐怖を感じ、言い返すことが出来ない。そんな二人の喧嘩を見ていた学院長は、また愉快そうに笑うと、朱音と雅美に「喧嘩なら寮に帰っても出来るじゃろう。さぁ、そろそろ行こうかの」と、言った。その学院長の一言で朱音と雅美の言い合いは中断され、一先ず寮に向かうことになった。学院長によるとこの浮遊大陸は、中枢の学院を中心にした浮き島が多数あり、島同士を転移魔法で行き来できるらしい。


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